twitterlog(Wed, Jun 23 2010)

  • 08:32  小田川大典,"現代の共和主義【近代・自由・デモクラシー】"(2008)を見てる。ここでは「〈政治的-消極的〉な共和主義的自由論」を擁護するPettitの議論が“分析系”として紹介されてるのだろうか? それに対するLarmoreの指摘がよく理解できない。
  • 12:14  .@odg1967 ありがとうございます.「承認」を重視したというテイラーに関心を持ち,貴稿を手に取りました.支配が<恣意的>かどうかを判定する際には,「人格の尊厳」に対して<恣意的>かが問題となるはず,というような指摘なのか,と考えております.昼食時に再度拝読いたします.
  • 12:19  .@azumamiko お返事ありがとう.「キャラクター」と「物語」との衝突は確かにそのように取りざたされていると思います.2点の応答がありえそうです.どちらも「キャラクター」という概念の受け取りかたを問い直すものですが.
  • 12:21  .@azumamiko 1つは,“揺らいだ時点でそいつは「キャラクター」じゃなくなるのでは?”というもの(問題となっている「キャラクター」を“ひとそのもの”ではなく“ひとの特徴”“役まわり”といういみのほうで理解しなおす方針).
  • 12:26  .@azumamiko もう1つは,“ひとそのもの”と理解した上で,「キャラクター」の性質はスカスカであり,「成長」の余地が実際にある,と応じるもの.フィクション作品には常に空所補充できる(描き落とした性質がある)ことを考えれば,そこを埋める形で「キャラクター」の変化が描けます.
  • 12:53  .@azumamiko あと,例えば,東『ゲーム的リアリズム』内の話題はわりと周知ですが,それに依拠する際は,ちゃんと展開しといたほうが,突っ込んだ議論もしやすいと思います.定義が曖昧だと,“カードが成熟!1”などと何でも言えちゃうので. / 今回はお話しできて勉強になりました!
  • 13:00  芸術作品には「受容者が想像してなかったことを提示する」というような側面が一般にあるという議論には共感するので(ヤウスらの受容美学ですね),“「キャラクター」の「成長」”も“「データベース」からの逸脱”=“「期待の地平」の裏切り”と見れば,そんなに衝撃的でもないんでは,と思います.
  • 13:21  備える内在的性質がぜんぶ本質的であるような虚構的対象を「キャラ」と呼ぶってんならそいつは確かに変化不可能だろうが,そんな定義は強すぎて,どんな虚構的対象によっても満たせないのでは.
  • 22:37  .@odg1967 解説ありがとうございました.政治理論では,歴史的(偶然的)事実から離れて規範から議論をする「分析系」と,歴史的事実(例えば近代社会のありさま)について議論をする「歴史系」とがある,ということになりますか.

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