twitterlog(Sat, Apr 02 2011)

  • 22:13  .@1n9z7k3y0s2n2b0 野崎先生こんにちは.「窮状に置かれた人の行為の倫理性は問いようがない」とのこと,そのように問う資格のある他人はいないだろう,という点では賛成しとうございます.が,2点ほど疑問があり,迷っております.
  • 22:13  「窮状に置かれた人の行為の倫理性は問いようがない」という立場についての疑問の1つは,「窮状」とはいつで,“平時”とはいつなのかです.これに対しては,野崎先生の論をいくつか拝読いたしまして,究極的にはいつでも「窮状」と言えるのではないか,と考えております.たとえば,
  • 22:13  「倫理が携わるのは将来の構想についてであって,現在(と過去?)の行為にではない」という立場は考えられます.ただ,将来の構想を行うということは現在にのみできる行為なので,倫理が行為のよしあしを問えなくなるこの立場に肩入れすることには,若干の躊躇があります.また,
  • 22:13  「窮状」を狭い意味に限ったとしても,たとえば戦争という巨悪がなされている最中は,いかなる行為も倫理的ではないことになりかねず,戦争中の行為の高潔さを称賛するといった我々のふるまいを説明できないところがあります(ここは三浦俊彦, *戦争論理学*(2008)からヒントを得ました).
  • 22:13  2つめは,行為の倫理性を問うのは,他人に限らないことに起因する疑問です.我々は何かを選択するとき,単に自分のしたいように選択するだけではありません.「窮状」においても,身内びいきや世間体だけでなく,倫理的基準に照らしてどうかと自問自答し,よりよいほうを選びます.これに対しては,
  • 22:14  「窮状において頼りたくなるのは,ほんとうの倫理ではなく,屁理屈による正当化だ.その証拠に,どちらを選んだって倫理的悔いは残る」という立場が考えられます.ただ,どちらにも倫理的な欠点はあるにせよ,倫理的にマシな(正義が理想的に達成された状況に近い)選択肢はあるかもしれません.また,
  • 22:14  もしどちらの選択も無差別なら,同様のトロッコ問題的状況に2度遭遇した際,あるときは1人を,あるときは5人を助けるようなひとがいても,そのひとに倫理的に欠陥はないことになります(徳倫理学でいう統合性の問題).もちろん完全に同様の状況など実現しないとはいえ,これは奇妙かもしれません.
  • 22:28  .@1n9z7k3y0s2n2b0 以上,ちょっと近視眼的すぎるかもしれませんが(私の意見はいつもそうなのです),疑問を持っております.まずはもっと勉強することがだいじだと思いますので,野崎先生の論考その他倫理学の文献をよく読んで,また考えたいと思います.
  • 22:55  明日3日,本郷で15時から,がいけん! RT @at_akada "明日は、ゆるふわ形而上学特別篇ということで、東大で小規模な研究会を行います。内容は哲学的価値論にかかわるサーベイ的な発表がふたつ(それぞれ福利と害について)。"

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